「三島女郎衆」と「瘡守(かさもり)稲荷」の信仰


「富士の白雪ノーエ 富士の白雪ノーエ 富士のサイサイ 白雪朝日でとける

とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ

三島女郎衆はノーエ 三島女郎衆はノーエ 三島サイサイ 女郎衆は御化粧がながい

御化粧ながけりゃノーエ 御化粧ながけりゃノーエ 御化粧サイサイ ながけりゃ御客がおこる

御客おこればノーエ 御客おこればノーエ 御客サイサイ おこれば石の地蔵さん

石の地蔵さんはノーエ 石の地蔵さんはノーエ 石のサイサイ 地蔵さんは頭が丸い

頭丸けりゃノーエ 頭丸けりゃノーエ 頭サイサイ 丸けりゃからすが止る

からす止まればノーエ からす止まればノーエ からすサイサイ 止まれば娘島田

娘島田はノーエ 娘島田はノーエ 娘サイサイ 島田は情けでとける」(「三島農兵節普及会」資料より引用)


これは有名な「農兵節」の歌詞です。

「農兵節」といえば、昭和9年2月に日本コロンビアより赤坂小梅の唄でレコードが発売され、瞬く間にヒットしラジオでも放送され有名になりました。

 三島市では、毎年、開催される市民の最大のイベント「三島夏まつり」(8月15日〜17日に開催)をはじめ、イベントでは必ず行われる行事のひとつとなっています。お揃いの衣装に身を包み「農兵節」の歌詞に合わせて踊りながら練り歩きます。


では、この「農兵節」の歌詞にも登場する「三島女郎衆」の起源はいつごろなのでしょうか。


 文献によれば「天正十八年三月豊臣秀吉が小田原北條氏攻撃に際しては将兵の休養に女を与えて慰安したと伝えられているので、売笑婦の数もおびただしいものであったに相違ない。こうした女は将兵に春を売る目的のために遠州以遠の地、または京大阪附近の売笑婦が大挙動員されたようである。」


「特に将兵の好んで賞美した者は相模女と安房女であった。伊豆の女は概して浮気風であるが、安房女は腰のバネがよく、相模女に至っては従順でしかも男の堪能するまで務め上げるという積極性と魅力とに富んでいる。だから、江戸時代になっても三島の宿場女郎には比較的安房と相模出生の女が多かった。」(「三島市誌 中巻」(三島市誌編纂委員会編)より引用)


街道筋でも「三島女郎衆」の人気は高かったようです。


 その理由として「安土桃山時代(天正十八(1590)年)」以降、この地に辿りついたそれぞれ出身地の違う女性たち(「身体的に魅力のあった安房の女性」「ある時は従順な積極性と魅力とに富んでいた相模の女性」「曽根崎心中にも代表される情の深い関西の女性」「奥ゆかしい京の雅さを持った女性」)など、それぞれの要素がお互いに融合する形で、時代を経て江戸時代後期には「三島女郎衆」としての原型が出来あがったのではないでしょうか。


 江戸時代、東海道の要所でもあった「三島宿」は「大井川の川越し」と並び、街道の難所としての「箱根越え」がありました。東に箱根山をひかえた「三島宿」は「箱根越えをしてきた旅人」「これから箱根越えをする旅人」の宿泊の場所として街道を挟んで両側に「旅籠」が軒を連ね繁盛していました。

 そんな江戸時代から続く「三島女郎衆」の在籍していた「飯盛旅籠」(その後、明治政府の取締まりにより「貸座敷業者」に変容していきます。)が、大正末期、取締っていた内務省の新しい方針により、風紀上の理由から街道での営業が出来なくなってしまいます。そこで、明治中期以降、街道沿いで営業していた「花本」「宝来」「中川」「尾張」「稲妻」「千歳」「井桁」「万字(後に万寿と改称)」「鳴海」「清水」の10軒は、三島宿の実力者でもあった「稲妻楼」主人の発起により「三島遊廓」を設立することになります。                                              しかし、新しい移転先の土地買収などに多額の資金を必要としたため、いくつかの業者はやむなく廃業することとなり、最終的には「稲妻」「尾張」「万寿」「井桁」「新喜」の5軒で営業することになります。新たな移転先には、宿場から離れていて風紀上もっとも影響が少ない街道の西南に位置する「三島新地(茅町)(現、三島市清住町近辺)」が選ばれ,大正14年(1925年)「三島遊廓」として営業をはじめます。


「三島遊廓 萬字樓」(1932年・昭和7年)(「ふり返る20世紀−三島100年の証言−」(三島市郷土資料館)から引用)


 「三島遊廓」として営業していた地は、現在は静寂に包まれた住宅街となっています。隣接する駿東郡清水町との境界線でもある「境川」からは、川のせせらぎと鳥の囀りが聞こえてきます。そんな静寂の地も、当時は夜ともなると近隣の旦那衆や野戦重砲兵連隊の兵隊さんで、かなり賑わっていたのでしょう。


「跡地の横にある境川」(2009年10月撮影)

 最後まで営業していた「萬字楼」の建物は、昭和47年(1972年)発行の「ZENRIN(ゼンリン)」の地図で確認すると所在地は「村岡荘」となっていて、その後、いつ取り壊されたかは不明です。(「伊豆(谷亀利一著、湊嘉秀著)」(保育社)の7ページに「三島遊廓跡」として写真が掲載されています。)

 現在、所在地と思われる場所は一般住宅となっています。


「右手奥が所在地だった場所です。」(2009年10月撮影)


 時代とともに隆盛、衰退を極めた「三島遊廓」。そこで働く東海道の街道筋でも美人が多かった「三島女郎衆」も性交渉による病気感染に関しては非常に敏感だったようです。


 1929年(昭和4年)イギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングにより「ペニシリン(Penicillin)抗生物質」が発見されるまで「瘡毒(そうどく)(梅毒)」の決定的な治療法はありませんでした。すでに日本国内で蔓延していた「瘡毒(そうどく)(梅毒)」の起源については、今だ諸説あり研究者の間でも議論が分かれるところですが、そんな中、2008年2月に「梅毒の”起源”はコロンブス隊 米研究者」という論文が発表されます。


「性病、梅毒の起源となったのはイタリアの冒険家、コロンブスの航海だった−。米国の科学者がこのほど、病原菌の遺伝学的な研究により「15世紀末にコロンブス船団の乗組員が米大陸で感染した風土病が起源」との米大陸起源説を確認したと学会誌に発表した。 梅毒の起源は、1490年代にイタリアで突然、記録に現れたことなどによる欧州起源説と、コロンブスらの航海で欧州にもたらされた米大陸起源説など諸説があり、長年、論争となっていた。研究を行ったのは、米ジョージア州アトランタにあるエモリー大のハーパー氏らのチーム。梅毒などを起こす細菌「トレポネーマ」を全世界で採取し、26サンプルを比較研究。その結果、梅毒は南米などで見られる熱帯風土病「フランベジア」に近い病気だと分かった。ハーパー氏らはこの発見に基づき、1492年に米大陸に到達したコロンブスの船団の乗組員がフランベジアに感染。船団の欧州帰還後、細菌は欧州の冷涼な気候に適応し、梅毒を起こす細菌に変異したとの説を立てた。その裏付けとして、コロンブスの航海以前に世界で梅毒発生が確認されていないことなどを挙げている。(共同)」(「産経ニュース」2008.2.8 より引用)


 日本で「瘡毒(そうどく)(梅毒)」が登場したのは、富士川游(ふじかわ ゆう)博士が発掘した書「月海録(竹田秀慶(たけだしゅうけい)著)」に書かれていて、室町時代の末期「永正(えいしょう)9年(1512年)」に「畿内(「山城国」京都府京都市以南)」で日本初の※「罹患(りかん)者」が出現したとあります。その呼称も多彩で「唐瘡(とうがさ)」「広東瘡(後に省略されて広瘡)」「琉球瘡」と呼ばれていたそうです。(呼称が多いのは感染経路に関係していて「唐瘡」→「広東瘡」→「琉球瘡」だとされています。)※「罹患(りかん)」・・病気にかかること。

 この性感染病は人間を介して感染しますが、その感染経路は主に男女の性行為によるもので、当時、隆盛を極めていた江戸の吉原遊廓をはじめ全国に点在する「遊廓※」や街道筋の宿場町の「飯盛旅籠」など遊女を抱えていたところでは深刻な問題になっていました。

 そのことは、ドラマ「JIN−仁−(TBS系列)(第5話(2009年11月8日放送)「神に背く薬の誕生」(視聴率20.3%)」(毎週、日曜日、午後9時〜9時54分)でも描かれています。

 ドラマ「JIN−仁−」では、吉原の遊廓「鈴屋」の花魁「野風(のかぜ)(中谷美紀さん)」の先輩「夕霧(ゆうぎり)(高岡早紀さん)」姉さんが、重度の「瘡毒(そうどく)(梅毒)」に侵され余命幾ばくも無い状態、主人公の「南方仁(みなかた じん)(大沢たかおさん)」は治療するよう懇願されますが、当時は、まだ特効薬の「ペニシリン」が存在しない為・・・。


「遊女」にとって日々の仕事とはいえ流行していた「瘡毒(そうどく)(梅毒)」は心配の種だったに違いありません。

 当時、ほとんどの遊女たちは「瘡毒(そうどく)(梅毒)」に感染した場合、暫く床に臥しますが潜伏期に入って症状が収まると治ったと勘違いして仕事に復帰します。(このことが一人前の遊女としての証しといわれていました。)潜伏期を過ぎ年月が経つと病気が悪化することになります。一般的に年季奉公が10年から15年だとするとドラマのように最後は重篤な状態になってしまいます。

 ですから「禿(かむろ)(7歳〜8歳頃の遊女見習いの幼女)」の頃から、このような光景を見てきている彼女たちにとっては非常に深刻な問題となる訳です。                         しかし、年季奉公中、働かなくてはならない身としては、このような性感染症に罹患(りかん)したからといって休む訳にもいきません。ですから遊女にとって「性感染症への罹患(りかん)」は、まさに死活問題となってしまいます。                                      そこで、彼女たちは、せめてもの慰めとして「瘡守(かさもり)稲荷」を信仰し「安泰」を願いました。この「瘡守(かさもり)稲荷」の起源について文献によると、現在の兵庫県高槻市にある「笠森稲荷」が最初とされています。その後、ご利益があると評判になり、各地に「勧請※」され祀られるようになりました。※「勧請(かんじょう)」・・神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること。


@「笠森稲荷」


「笠森稲荷(かさもりいなり)は、大阪府高槻市にある稲荷神社と、そこから※「勧請(かんじょう)」された神社のことである。笠森稲荷神社、笠森神社とも呼ばれる。 瘡(かさ、かさぶた)平癒の神として信仰された。笠森は瘡守(かさもり)と音を通じて、「瘡平癒(かさへいゆ)※」から、皮膚病のみならず梅毒に至るまで霊験があるとされ、江戸時代後期には各地に広まった。病気平癒を祈って土の団子を供え、治癒すると米の団子を供えることが慣わしになっている。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)

※「瘡平癒(かさへいゆ)」・・皮膚のできもの、はれものが治ること。


A「江戸谷中(台東区上野)。笠→瘡,森→守から,梅毒に効験があると信じられ,日ましに江戸者の信仰があつくなった。天正12年(1584),羽柴秀吉と徳川家康が長久手で戦った折り,家康は腫れ物に悩まされていたが,家臣の倉智甚左衛門が摂津の国島上郡真上村の笠森稲荷に祈ったところ快癒してなおも戦勝をもたらした。天正18年(1590),家康が江戸に居城を構えたとき,甚左衛門も江戸入りをして,真上村の笠森稲荷を江戸谷中に勧請したと伝えている。                            現在,東京上野の谷中には笠森稲荷を祀っている寺が三箇所ある。天台宗養寿院,浄土宗功徳寺,日蓮宗大円寺の寺々であるが,江戸古図の所在地からみると,浄土宗功徳寺が一番近いように思える。      この笠森稲荷の本源は,大阪市高槻市真上に鎮座する笠森稲荷社である。」(「木のメモ帳」HP 番外編「江戸に遊ぶ」「江戸生活・風俗ことば」より引用)


 すでに日本各地に勧請されていた「笠森稲荷(かさもりいなり)」ですが、「三島女郎衆」は三島宿に唯一あった「誓願寺(三島市北田町)」の「瘡守(かさもり)稲荷」を信仰していました。(「東海道箱根峠への道−箱根八里西坂道の歳月−」(中部建設協会静岡支部編集)P104〜P121)に掲載されている写真の社(やしろ)には沢山の小さな白狐が奉納されています。)                      その「誓願寺(せんがんじ)」は「三島市役所(三島市北田町)」の南隣にあります。


「県道21号線向側から「誓願寺」を見たところ」(2009年10月撮影)


「誓願寺」(2009年10月撮影)


「誓願寺」(2009年10月撮影)


 住職によると「平成7年(1995年)頃「県道21号三島裾野線」(国道1号線南二日町I.C(三島市東本町2丁目)の起点から「県道22号三島富士線(旧東海道)」の大社町西交差点まで)の道路拡張・拡幅工事に伴い「誓願寺(三島市北田町)」の一部と隣接していた「田福寺(でんぷくじ)」が計画路線にかかっていたため「田福寺」は三島市谷田に移転し「誓願寺」の境内にあった「瘡守(かさもり)稲荷」も解体撤去されることになった。」お社は、すでに境内から撤去され、また、歳月が経過しているため、現存する資料(写真など)は、「誓願寺」には存在していません。ゆくゆくは改めて稲荷を祀る計画があるとのことです。(※写真にはお社に沢山の小さな白狐が奉納されています。写真提供は「三島市郷土資料館」となっていますので追加調査をしてみます。)

 日々の暮らしの中、彼女たちのささやかな希望でもあった三島に唯一あった「誓願寺」の「笠森稲荷(かさもりいなり)」。そんな性感染症と闘いながらも安泰を願った名も無き彼女たちのお墓が現存しています。


 それは、市内の中心部に位置する「圓明寺(えんみょうじ)」にあります。(「三島市誌(中巻)」「第七節、江戸時代(封建後期) 宿駅と交通」の419ページ「第九十七図 宿場女郎の墓(圓明寺)」)に写真が掲載されています。

 その「圓明寺(えんみょうじ)」は、旧東海道から北側にある通称「鎌倉古道」沿いにあります。


「旧鎌倉古道から圓明寺(えんみょうじ)入口を見たところ」(2009年10月撮影)


 「圓明寺(現、三島市芝本町)」は、通りから少し奥まったところにあります。


「圓明寺の参道」(2009年10月撮影)


「圓明寺の山門」(2009年10月撮影)


 ご住職の奥さまによれば、「宿場女郎の墓・・・墓というか無縁仏なんですけど、もう大分、戒名が薄くなってしまって。」とのこと。現存する墓石は、すでに文献の写真の形状は違っています。


「宿場女郎の墓の永代供養塔」(2009年10月撮影)


「宿場女郎の墓の永代供養塔」(2009年10月撮影)


 掲載された写真の撮影後、境内が整理され今では合同の永代供養塔として供養されているようです。


資料


「遊廓」


「近世になると、遊女屋は都市の一か所に集められ遊郭が出来た。1584年(天正13年)、豊臣秀吉の治世に、今の大阪の道頓堀川北岸に最初の遊廓がつくられた。その5年後(1589年 天正17年)には、京都柳町に遊廓が作られた。徳川幕府は江戸に1612年(慶長17年)日本橋人形町付近に吉原遊廓を設けた。17世紀前半に、大坂の遊郭を新町(新町遊廓)へ、京都柳町の遊郭を朱雀野(島原遊廓)に移転した他、吉原遊廓を最終的に浅草日本堤付近に移転した。島原、新町、吉原が公許の三大遊郭(大阪・新町のかわりに長崎・丸山、伊勢・古市を入れる説もある)であったが、ほかにも全国20数カ所に公許の遊廓が存在し、各宿場にも飯盛女と言われる娼婦がいた。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)


「花魁」


「花魁(おいらん)は、吉原遊廓の遊女で位の高い者のことをいう。 18世紀中頃、吉原の禿(かむろ)や新造などの妹分が姉女郎を「おいらん」と呼んだことから転じて上位の吉原遊女を指す言葉となった。「おいらん」の語源については、妹分たちが「おいらの所の姉さん」と呼んだことから来ているなどの諸説がある。

 江戸時代、京や大坂では最高位の遊女のことは「太夫」と呼んだ。また、吉原にも当初は太夫がいたが、「おいらん」という呼称の登場と前後していなくなった。今日では、広く遊女一般を指して花魁と呼ぶこともある。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)



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