「三島市立図書館文学講座」講聴記

2009年11月14日(土)「図書館文学講座」は午後2時からの予定だったので時間的には余裕がありました。 

 この日、私は、かねてから予定していた三島市立図書館主催の「平成21年度三島市立図書館文学講座」に参加すべく朝からテレビの天気予報を気にしながら準備をしておりました。

最寄の駅に到着した時には、まだ小雨が降っていましたが、三島はここよりは西にあるということで天候が回復していることを祈りつつ電車に乗ります。暫くして東海道線に乗り換え三島に向かいます。

熱海駅を過ぎ長い長い丹那トンネルを抜けると、すでに雨は止んでいました。

 よく箱根山を境に天候がガラリと変ると聞きます。箱根連峰最高峰 の「神山(かみやま)」の標高が1,438m。箱根連峰中央火口丘と二重の外輪山で構成された箱根山は神奈川県と静岡県にまたがり江戸時代から東海道の難所でもありました。現在は、交通機関の発達により交通には不便はありませんが、こと天候に関しては今だ影響力があります。

 いつものように三島駅の南口を出て愛染坂を下り、まだ時間がありましたので、折角なので「白滝公園」を散策することにしました。

この時期、園内は湧水も枯れ湧水口の岩肌に木々の落ち葉が降り注ぎ、また違った風情を感じます。

 今回、会場になったのは「三島市民生涯学習センター」の3階にある「講義室」で、正確に言いますと三島市立図書館があるのは「三島市民生涯学習センター」の1階ということになります。

早速、3階の講義室にエレベータで向かいます。

 エレベーターを降りると正面の市民ギャラリーでは市民団体主催の展示会が開催されていました。さすがに文教都市を標榜しているだけあって市民レベルでの文化活動は盛んなようです。

「太宰治生誕百年、三島・伊豆での作家活動とその生活」講座の定員は150名。入場無料・申込み不要。

講義室の入り口で受付を済ませます。

 当日は天候が悪かったので、どうかとは思いましたが、会場に入ってみると、すでに約100名位の方たちがおられました。一通り見渡してみると聴講者のみなさん平均して高齢の方が多く私が一番若かったんじゃないでしょうか。当日の服装が新聞か雑誌の記者みたいだったので少し浮いていたような気もします。

 あと教科書などで作品にふれる機会がある太宰文学なのに学生さんの姿がなかったのは少し寂しい気がしました。

「文学講座の様子」(2009年11月14日(土)撮影)


 午後2時、予定時間通りに講座ははじまりました。進行役の女性職員の案内から図書館長の挨拶へと移ります。壇上に用意された席にお座りになっている中尾氏は終始リラックスされ紹介されるのを待っておられました。

いよいよ、中尾氏の登場です。

簡単な挨拶から、早速、本題にはいります。

 わたしとしては、この企画のきっかけとなった「三島文学散歩」の著者である中尾勇氏による講座ということで、ご本人から色々なエピソードなどが聞けるのではないかと内心期待していました。

 今回、講義の題材として配布されたのは、11月に発売される「文芸三島」に掲載予定の草稿「生誕百年の太宰治と三島、伊豆の生活(その一)」でした。

中尾氏によれば、三島における太宰治の足跡調査には大変苦労されたようです。

以下、講演内容の要約です。


@著書には書かれていませんでしたが、武郎(たけお)さんなどからの聞き取り調査によると、太宰は昼間は喫茶店に入り浸りで手回しの蓄音機でレコードなどを聴き、夜は武郎さんと馴染みの「江戸一」に飲みに行っていたようです。


A※相馬正一氏の増補「若き日の太宰治(津軽書房)」にも掲載されている補稿の三島における同行調査にも触れ、武郎(たけお)さんは「最初のうちは、中々、お話をしていただけなかった。」と述懐しておられました。


 訪問して3回目の時、やっとお話が聞けたそうです。武郎さん自身、太宰との思い出については、世間で言われているようなこととは別に特別な思いがあり、また明治生まれの気骨な気質がそうさせていたのでしょうか。

 わたしも増補「若き日の太宰治(津軽書房)」を拝読しましたが、相馬先生のご努力には敬服します。

※「相馬 正一(そうま・しょういち)

 昭和4年(1929)青森県に生まれる。弘前大学卒業。弘前大学非常勤講師、上越教育大学教授、岐阜女子大学教授を歴任。現在、岐阜女子大学名誉教授。日本近・現代文学専攻。主な著書に『若き日の太宰治』『評伝太宰治』『井伏鱒二の軌跡』『若き日の坂口安吾』『太宰治と井伏鱒二』『国家と個人』(人文書館)など。」(「有限会社 人文書館」HPより引用)


B当時の「ララ洋菓子店」について「まだ洋菓子に馴染みがない時代だったので、お客としては三島の芸妓衆とその旦那衆が通うくらいで大変だったと思います。」と話しておられました。


軽妙なトークで、ところどころユーモアを交えたお話は、会場でも笑いを誘っていました。

中盤、中尾氏自ら「満願」を朗読されます。

そこで、「満願」に登場してくる産婦人科の医師について、

中尾氏の見解としては、「今井産婦人科医院の今井直氏ではないか。」とのこと。


@当時、病院長として勤務していた「三島社会保険病院」に行き、今井先生の書かれたカルテを探したそうですが見つからなかったようです。先生が亡くなった後、奥様は熱海に移られ、その後、新潟に帰られたそうです。そこで、新潟にいる今井先生の姪御さんにもお会いして色々とお話を伺ったそうです。


途中、10分間の休憩を挟み、


A太宰は昭和2年、旧制弘前高等学校時代に「近松門左衛門」や「泉鏡花」を熱心に勉強していたようです。(私は、このことが後々の「情死」に影響していくと考えています。)

その他、

「太宰は三島に来た時は、津島修治で通していた。」ことや「太宰は三島に来た時に内縁の妻だった小山初代をなぜ連れてこなかったのか?」など、まだまだ解明されていない疑問などもお話されていました。

 最後に「三島における太宰の足跡」について、中尾氏は、調査した内容で未発表のものが多々あり、できれば、あと一冊出版したいとおっしゃっていました。緻密な取材に裏付けされた内容で真実がヒシヒシと感じられる90分でした。

午後3時32分、沢山の拍手のうちに「文学講座」は無事終了しました。

講演終了後、まだ時間があったのでやり残しの資料調査をすべく1階の図書館に行きました。

 図書館を後にしたのは日も落ちかけの午後5時頃、西の空を見てみると、まだ低く垂れ込める雲に夕陽が反射して赤く染まっていました。


〇三島市は文教都市としても有名なところです。

 戦後、「野戦重砲兵連隊」無き後、広大な跡地には「三島市立北小学校」「三島市立北中学校」をはじめ「静岡県立三島北高等学校(文教町)」「日本大学三島キャンパス(文教町)」「東海旅客鉄道(JR東海)三島社員研修センター(文教町)」が出来ました。また隣接して「放送大学静岡学習センター(静岡県立三島長陵高校2階)」「東レ総合研修センター(末広町)」など数々の教育施設があり、現在も平成22年4月開学予定の「順天堂大学保健看護学部」の「三島キャンパス(三島市大宮町3丁目)」が建設中です。

 また教育関連企業として小・中・高校生の学習塾や大学受験の通信添削で有名な「株式会社Z会(旧(株)増進会出版社)文教町ビル(文教町)」などがあります。このような沢山の教育施設のある「三島市」は、まさしく「文教都市」と言えます。



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